2014-11-21

女殺油地獄

7月から8月にかけて真夏の大阪・国立文楽劇場で、「サマーレイトショー」と題して上演された「女殺油地獄」のあらすじ、簡単な物語の進み行きを紹介する。
当座の観劇ガイドとするために、最も簡潔かつ適確に纏められている日本芸術文化振興会発行の本公演のパンフレットから写した。

女殺油地獄
近松門左衛門作、享保6年(1722)七月大坂竹本座初演とされます。同じ頃油屋の女房殺しの事件が歌舞伎でも演じられたらしく、元になった事件があったことが推測されています。江戸時代を通じて再演の記録はなく、近代になって戯曲研究の面から再評価され、俳優によって試演されることになりました。人形浄瑠璃文楽では八世竹本綱大夫・竹澤弥七の作曲により豊島屋油店の段がラジオ放送にて初演された後、昭和37年(1962)四月道頓堀文楽座で徳庵堤・河内屋が野澤松之輔の作曲により通して舞台化されることになりました。他の近松の作品と同様に当時の社会体制が物語の根底にあり、また晩春から初夏の季節感が主人公の行動に深く関連付けられています。

徳庵堤の段
五月初めの野崎参りが大坂市民の行楽となったのはこの物語の時代で、陸路と船路の参拝者が罵り合って競り勝つと一年の幸が得られるとの俗信がありました。これを背景に、与兵衛の言動や同世代の仲間との交わりで当時の若者が描かれます。また、お吉との関係・距離感が後の与兵衛の行動の伏線となります。

河内屋内の段
大坂へ逃げ帰った与兵衛は、病床の妹に飲み込ませ、実父の霊が憑いたことにして、養父に家督を譲るように迫ります。番頭上がりの養父は先代主人の実子の与兵衛に遠慮していましたが、実母に手を上げるのに至り、与兵衛を勘当してしまいます。家という組織に属する者としていながら、与兵衛は守るべき秩序の破壊者として描かれています。その末路は組織からの追放=勘当という処分でした。鬼子を育てたのは義理の親子関係、その親子関係を結んだのも家という組織を守るためでした。

豊島屋油店の段
五月五日は端午の節句、その前日は商人にとっては大事な決算日に当たります。身の回りに凝りたい年頃の与兵衛が初夏に冬物の着物を着ているのは、返済期限を前にして首が回らないからです。勘当した息子のために互いの目を盗んで小遣いを調達する両親の心遣いを知り、改心したと与兵衛は語ります。これが本心なのか議論になるところですが、お吉は信用しませんでした。急ぎ働きも素人仕事、血と商売物の油をぶちまけ、外題の通り、店の中は地獄の有様となるのです。

同 逮夜の段
お吉の三十五日の命日の前夜、豊島屋に天の恵みか、下手人の手掛かりとなるひと品が現れます。容疑者は現場に戻るを地で行く与兵衛は、人々の追及に遂に観念し、自らの悪行を認め、その凶行の動機を明らかにします。秩序を乱し続けた与兵衛の存在は悪そのものでしたが、人として一片の心が残っていたとするのは、近松の儒教的な理想主義とも言うべき姿勢です。

-平成26年「夏休み文楽特別公演」パンフレットより


国立文楽劇場開場30周年記念
人形浄瑠璃文楽 平成26年夏休み文楽特別公演

第1部【親子劇場】(午前11時開演)
かみなり太鼓(かみなりだいこ)--小佐田定雄=作
解説 ぶんらくってなあに
西遊記(さいゆうき)
五行山の段/一つ家の段

第2部【名作劇場】(午後2時開演)
近松門左衛門没後290年
平家女護島(へいけにょごのしま)
鬼界が島の段
鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)
浜の宮馬場の段/浅香市之進留守宅の段
数寄屋の段/伏見京橋妻敵討の段

第3部【サマーレイトショー】(午後6時開演)
近松門左衛門没後290年
女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)
徳庵堤の段/河内屋内の段/豊島屋油店の段/同 逮夜の段



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